寺田屋事件- 【坂本龍馬の背中を追う】

寺田屋事件

寺田屋事件と聞いて有名なのは、旅館・寺田屋で起きた、伏見奉行所の役人に坂本竜馬が襲撃された事件のことでしょう。実はその他にもう1つ、寺田屋事件と呼ばれるものがあります。それらの事件の内容・時期は全く違っていますが、どちらも薩摩藩の人が関わっています。

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薩摩藩の尊皇派による事件

薩摩藩の尊皇派を追放したと言われる事件は、文久2年4月23日(1862年5月29日)薩摩藩藩主・島津忠義の父・久光が、千人の兵を率いて京都へ行く事によって、寺田屋で起きました。 京都行きに薩摩藩の尊皇派が同行し、各藩の過激派・尊皇派や尊皇攘夷派も幕府を倒す計画を実行しようと、寺田屋に集まっていました。 久光は襲撃の計画を中止させようとし、藩から命令を出してもらいますが、拒否されてしまい藩士同士の斬り合いになりました。

尊皇派の目的

幕府を倒すために、政治を執り行っている関白・九条尚忠と、京都の治安維持を行っている京都所司代・酒井忠義の屋敷を襲撃して、安政6年に起きた安政の大獄以降、幽閉されている尊融法親王(そんゆうほうしんのう)を助け出す計画でした。

事件の結末

寺田屋

結果、6人が亡くなり2名が重傷、一部の尊皇派は説得に応じて投降しました。 後日重傷を負った2名は、藩の命令に逆らったとして切腹となり、投降した藩士は各藩に引き渡されました。また、引渡し先のない浪人を薩摩藩は引き取りましたが、船に連れ込み船内で殺され、海に投げられたと言われています。 薩摩藩は、乱闘によって破壊された家の修復と迷惑料の他に、藩同士の斬り合いについての口止め料として、多額のお金を寺田屋に渡しました。

伏見奉行所による襲撃

伏見奉行所の役人によって、慶応2年1月23日(1866年3月8日)に、寺田屋で坂本龍馬が襲撃を受けたのが、寺田屋で起きた2つ目の事件でした。 伏見の寺田屋は、京都と大阪の移動の船の交通の要となっていました。その為に、薩摩藩が良く利用しており、尊皇攘夷派が出入りすることの多く、伏見の奉行所や新撰組は、寺田屋を警戒していました。

襲撃

襲撃は、長州藩より龍馬の護衛役を任された三吉慎蔵と坂本龍馬が、薩長同盟の成功に立会い、大阪から伏見の寺田屋に帰って来た日でした。 三吉と二人で薩長同盟の成功の祝杯をあげ、寝ようとしていた午前3時頃に、おりょうがお風呂に入っていた所、異変に気付きました。裸同然の格好で階段を駆け上がり、2階に居る龍馬へ役人が大勢来ている事を知らせた事によって、龍馬達は態勢を整える余裕がありました。

役人達に薩摩藩の藩士だと伝えますが、龍馬の言葉を無視して、階段を上がり部屋に入ろうとしました。それに対して、槍の達人である三吉は槍を構え、龍馬は高杉晋作から贈られたピストルで応戦しました。数発の発砲後、役人達が怯んでいる隙に逃走しました。

逃走

寺田屋から屋根を使って逃走した龍馬達は、川沿いの木材屋に隠れました。役人から逃げ切れないと思った三吉の切腹を止めて、薩摩藩邸へ行くように指示を出し、役人との応戦の際に、左手の指を負傷してしまった龍馬は、この場に残りました。 龍馬に危険を知らせた後、薩摩藩邸へ知らせに走ったおりょうと、三吉の報告によって龍馬は、薩摩藩士に救出されます。

後日

高杉晋作

寺田屋事件で龍馬は、高杉晋作から贈られたピストルは、襲撃騒ぎの際に紛失してしまい、負傷した左手の指は重傷で、その後自由が利かなかったと言われています。 事件後に送った姉・乙女への手紙には、危機から救ってくれた「おりょう」のことを、「龍女が居れば、私の命は助かります」という内容の事を書いています。


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