海援隊が関わった事件

坂本龍馬に関係のある事件が、池田屋事件と寺田屋事件の2つ以外にもあります。それは、 龍馬が隊長を勤めていた、海援隊に起こった事件と海援隊が起こした事件があります。この2つの事件には、どちらも紀州藩が関わっています。

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いろは丸事件

いろは丸事件とは、慶応3年4月23日(1867年5月26日)に、坂本龍馬が率いる海援隊の船「いろは丸」と紀州藩の船「明光丸」が衝突し、いろは丸が沈没した事件です。 鞆(とも)の浦沖・六島付近での衝突によって、船は自力での航行が不能になるほど大破してしまい、鞆の浦へ向けて船を引いてもらい航行していた途中、宇治島沖で沈没しました。この時に乗っていた坂本龍馬と海援隊は、光明丸に乗り移ることで助かりました。

事故について

1862年にイギリスで造られた160トンの商船「いろは丸」に、1861年にイギリスで造られた887トンの軍艦「明光丸」が、蒸気室の横腹に衝突しました。更に90メートルほど後退してから再び、前進して2度目の衝突をしたと言われています。 この時のいろは丸には、銃火器・金塊などの積荷がありましたが、全て船と一緒に沈んでしまったと言う龍馬達の主張によって、7万両(約30億)の賠償金を紀州藩に請求をしました。

交渉

万国公法

船が沈没した翌日から、「いろは丸」の積荷の損害賠償について、鞆の浦で交渉が行われましたが、明光丸は急用を理由に、長崎へ出航してしまいます。 坂本龍馬は長崎まで追いかけ、衝突した原因と責任について、現在の国際法である「万国公法」で解決することを提案し、交渉を再開します。 海援隊の経理を担当していた岩崎弥太郎や、土佐藩参政の後藤象二郎が交渉に加わり、土佐藩と紀州藩の事件へと拡大していきます。

解決

後藤象二郎

紀州藩勘定奉行・茂田一次郎と土佐藩参政・後藤象二郎の話し合いにより、紀州藩が損害賠償を支払う事に応じて解決に至りました。龍馬に紀州藩が損害賠償に応じたことの知らせが届いたのは、暗殺された後でした。 その後、海底20メートルに沈没している「いろは丸」を、平成17年(2005年)までに潜水調査が数回行われましたが、銃火器などは発見されていません。また平成2年(1990年)には、いろは丸が沈没した場所は「水中遺跡」に指定されています。

天満屋事件(てんまやじけん)

天満屋事件とは、慶応3年12月7日(1868年1月1日)に、京都の旅籠・天満屋で坂本龍馬の仇を討つ為に、海援隊と陸援隊が紀州藩士・三浦休太郎を襲撃した事件です。 いろは丸事件の賠償金が支払われると決まってから、約1ヵ月後に坂本龍馬が暗殺された為、海援隊が紀州藩に疑いを持ったことにより事件が起きました。

敵討ち

海援隊が紀州藩の三浦休太郎を疑ったのは、幕府を支持していた佐幕派であり、いろは丸の件で恨みを持っていて、坂本龍馬を暗殺させたと言う話を聞いて、敵討ちを計画しました。この時、紀州藩は会津藩経由で、新撰組に三浦の護衛を依頼し、7人の新撰組隊士が護衛についていました。

天満屋襲撃

海援隊集合写真

海援隊と陸援隊の隊士16人によって、三浦と新撰組の隊士が、天満屋の2階で行っている宴会の最中に襲撃し、三浦は海援隊士の中井庄五郎によって、斬り付けられ頬を負傷しています。 騒ぎを聞きつけた新撰組と紀州藩が到着する前に、海援隊と陸援隊は撤退していました。 天満屋での戦闘によって、海援隊と陸援隊は三浦を斬り付けた中井庄五郎が死亡した他、3人の負傷者を出し、新撰組は2人の死亡者と、4人の負傷者を出しました。 狙われていた三浦は、頬に傷を負うだけで、海援隊たちの目的は達成されませんでした。

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