女性

坂本龍馬と結婚し妻となった女性と、婚約をしながらも結婚できずに生涯を終える事となった女性が、龍馬との出会いや過ごした時間はどんなものだったのでしょうか。そして坂本龍馬の死後に、どのように生きたのでしょうか。

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おりょう(お龍)

おりょうは寺田屋事件の後に、坂本龍馬と結婚して「新婚旅行」に出かけています。 新婚旅行と言っても、寺田屋で龍馬が負った傷の治療を兼ねた温泉旅行なのですが、これが日本で初めての新婚旅行と言われています。 寺田屋事件の際に窓から奉行所の役人が見え、おりょうがお風呂から飛び出して龍馬のいる部屋まで、危険を知らせに行ったという話しは有名な話です。その事件後に結婚したおりょうと龍馬が夫婦として過ごした時間は、わずか1年と10ヶ月ほどしかありませんでした。

おりょうの生い立ち

おりょう

「おりょう」の名前で知られていますが、本名は「楢崎 龍(ならさき りょう)」または「良(りょう)」と言い、医師である父・楢崎将作の長女として生まれました。父親が勤皇家であったため安政の大獄により獄死してしまい、母や姉妹達のために京都の料理屋などで働き、勤皇派の炊事などを手伝ったりもしていました。その際に龍馬と出会い、寺田屋を紹介され女将・お登勢の養女として働くこととなり、勤皇家であった父の事を隠すために、「春」と名前を改めています。

武勇伝

おりょうが18の頃、留守にしている間に妹達がそれぞれ借金のために大阪の女郎や、京都の島原に連れて行かれたことを知って、自分の着物を全て売って大阪までの旅費を作り、短刀を持って直談判に行って相手に「殺す」と脅されても、「殺せ、殺されに大阪まで来た」と言って引かず、相手が根負けした事によって妹を無事に助けだしたと言われています。このようなおりょうの性格が、龍馬に「おもしろい女」と言わせたのでしょうか。

「つる」として

おりょうは龍馬が暗殺された後、土佐の坂本家や京都の龍馬の墓守、そして東京へと色々な場所へと生活の場を移しています。 旅館の仲居をして生活をしていた際には、「つる」という変名を使っており西村松兵衛と明治八年に再婚するも、お酒を飲み酔うと「私は坂本龍馬の妻だった」と言うのが口癖で、アルコール依存症となっていたと言われています。 おりょうの死後、お墓には「贈正四位阪本龍馬の妻龍子」と刻まれ、密かに分骨して龍馬の墓にも埋葬されたと言われています。

千葉 さな子(ちば さなこ)

松平春嶽

さな子は龍馬の婚約者で、江戸での剣術修行を終えた頃にはさな子の父・千葉定吉に認められ、千葉家より短刀を贈られましたが、龍馬は結納に相応しいものを持っていない為、松平春嶽より貰った紋付を結納の品として贈ったと言われています。 結婚は国が落ち着いてからにしようと約束をしますが、龍馬が暗殺されてしまったことにより、さな子が龍馬と結婚することはありませんでした。

千葉さな子の生い立ち

さな子は北辰一刀流の開祖の弟・千葉定吉の次女として生まれ、剣術・長刀・馬術などに優れていた他、小太刀にも優れており10代にして早くも北辰一刀流は免許皆伝の腕前となります。美貌で知られていた為「千葉の鬼小町」や「小千葉小町」と言う、あだ名で呼ばれていたと言われ、さな子が16歳の頃には、千葉道場へ入門した龍馬の剣術修行の相手をしていたと言われています。 昔の名は龍馬の姉・乙女と同名であり、「さな子」は「佐那子」「佐那」とも書かれることがあります。

生涯独身

坂本龍馬の死後も一生独身を貫き、維新後には学習院女子部の舎監を勤めた後に、家伝の針灸により「千葉灸治院」を設立して生活をしていました。 亡くなるまで龍馬の家紋の入った片袖を、形見として大事にしていて、お墓には「坂本龍馬室」の文字が刻まれました。

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