関わりを持った人 - 【坂本龍馬の背中を追う】

関わりを持った人

坂本龍馬は違う考えを持つ人に影響を与えるだけでなく、時には全く逆の立場にあった人でさえ、親しくなってしまう他人を引き付ける力を持っていたのではないでしょうか。そして、坂本龍馬が他人を引き付ける人物であったからこそ、大政奉還を成功させることができたのではないでしょうか。

スポンサードリンク

谷 干城(たに たてき)

谷 干城

谷干城は坂本龍馬を尊敬していて、瀕死の中岡慎太郎から事情を聞きだし、暗殺犯を生涯かけて追いかけたと言われています。 新撰組局長・近藤勇を捕えた際には、尋問について薩摩藩と対立しただけでなく、死罪の場合には武士の名誉を重んじて、切腹にするのが通常であるにも関わらず、斬首・さらし首にしたのは谷干城にとって近藤勇の死は、龍馬の敵討ちであったからだと言われています。 後に見回組の今井信郎が「坂本龍馬を殺した」と言ったのに対し、「お前ごときに坂本龍馬が斬られるものか」と非難したと言われています。

生い立ち

谷は坂本龍馬よりも先に武市瑞山と知り合い、尊皇攘夷運動に感化されるが、後藤象二郎の手配により上海に留学した経験によって、尊皇攘夷の非を知ることとなります。更に翌年には藩の命令によって、長崎に行ったときに坂本龍馬・中村慎太郎と出会い、倒幕へ感化され薩摩密約に参加しますが、この年二人は暗殺されてしまいます。 維新後には「兵部権大丞」などを勤め、明治には「熊本鎮台司令官」に就任、西南戦争では西郷軍の攻撃から熊本城を死守し、名将と言われました。それ以降も軍高官・大臣などを務め、欧化政策に反対し保守派として活躍しました。

後藤 象二郎(ごとう しょうじろう)

後藤は慶応になり政治の姿勢を攘夷論へと変え、尊皇派である坂本龍馬との会談をしています。この会談が周りにとって驚きだった理由は、龍馬は後藤の義兄である吉田東洋の暗殺をした土佐勤皇党に参加しており、後藤は土佐勤皇党の党首で龍馬の遠縁・武市瑞山を切腹させたと言う過去があるからです。 会談の際に龍馬の考えた船中八策をもとに、山内容堂と共に署名した大政奉還の建白書を提出し、将軍・徳川慶喜は大政奉還を行いました。

生い立ち

後藤 象二郎

早くに父親を亡くして義兄である吉田東洋の塾で学び幼年期を過ごし、吉田の推薦によって幡多郡奉行・御近習目付・普請奉行と活躍しています。その後、吉田が暗殺されたことにより地位を失うこととなります。 前・藩主である山内容堂から信頼され、江戸の洋学教育研究機関で蘭学・航海術・英学などを学んだ後に、大監察として就任し幕府権力の再構築のための公武合体と言う名目で、初めに土佐の勤皇党を壊滅状態へと追い込み、武市瑞山を切腹させます。

維新後には、政府の色々な要職に付いた後に、政府より払い下げを受けられて長崎県の高島炭鉱を元に、蓬莱社を設立するが経営がいい加減なために破綻し、岩崎弥太郎に売却してしまいます。

岩崎 弥太郎(いわさき やたろう)

岩崎は脱藩の罪を許された坂本龍馬が隊長を勤める海援隊が、土佐藩の外郭機関となった際に、藩からの命令で隊の経理を担当することとなります。いろは丸事件(ここも【】をつけたほうが、いいでしょうか?)の際には、坂本龍馬・後藤象二郎と共に交渉をした事により、賠償金を支払ってもらうことが出来ました。 坂本龍馬と岩崎弥太郎は、仲が良くなかったとも言われていますが、岩崎の日記には、龍馬と共にお酒を酌み交わしたなどの交流があったと、記されています。

生い立ち

岩崎 弥太郎

岩崎は14歳で漢詩を藩主・山内豊熈に披露して、その才能を認められていました。 吉田東洋の開いていた松林塾に入り、後に藤象二郎に才能を認められ厚遇を受けます。 吉田が参政になり仕え長崎に派遣されるが、公金を使ったことにより半年で帰されることとなります。その後、土佐勤皇党の監視や脱藩士の捜索を仕事として行うが、吉田が暗殺され犯人を捜すように命じられます。藩主の江戸参勤に同行という形で、犯人を追うために同僚・井上佐一郎と大阪へと行くことになりますが、単独行動の際に必要な届出に不備があったため帰国させられてしまいます。

この時、大阪に残った井上佐一郎は、岡田以蔵によって暗殺されてしまいます。この帰国は届出の不備ではなく、捕縛が困難だと判断し任務を放棄したとも言われています。 明治元年に土佐藩の負債を肩代わりし、船2隻を手に入れて海運業の会社を始め、のちに三菱財閥の創設者となります。その設立した「三菱商会」の三菱のマークは、土佐藩藩主・山内家の三葉柏紋と、岩崎家の三階菱紋の家紋を合わせて作った、というのは有名な話です。


ページの先頭へ