身内 - 【坂本龍馬の背中を追う】

身内

龍馬は父や姉から受けた影響はあったのでしょうか。そして、どんな人物でその後どういう人生であったのでしょう。そして、遠縁である武市瑞山は勤皇党の党首となった後に、龍馬とは違う道を歩んでいます。同じ勤皇党にいて親しかった間柄であった二人でしたが、別々の道を行くこととなった武市は、どんな人生を送ることになったのでしょうか。

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坂本 八平(さかもと はちへい)

八平は江戸時代末期の武士で、山本覚右衛門の次男として生まれ、16歳で坂本家の婿養子として坂本幸と籍を入れ、坂本家第3代当主になりました。本名・直足(なおたり)の他にいくつかの名前があり、通称「常八郎」のちに「長兵衛」と変え、隠居してからは「八平」と名乗っていました。 八平は、弓・槍ともに免許皆伝の腕前を持ち、書・歌など学問にも優れた文武両道に長けていただけでなく、「城下公方」と呼ばれるほどに経営の手腕も素晴らしかったと言われています。

父として

龍馬に対して幼少の頃から厳しく、楠山塾で口論となり脇差で斬りかかられ、その事により相手が退塾となったと聞いた八平は、「龍馬に非がないとは言えない」と退塾させたと言われています。剣術の修行のために江戸へと行く際には、「修行中心得大意」と言う三ヶ条を書いて渡して、龍馬はこれを「守」と書いた紙に包み、お守りとして生涯大事にしていました。その三か条には「忠義・孝行の心を忘れないこと」など、士道を重んじる人であったことが分かる内容が書かれています。

坂本 乙女(さかもと おとめ)

乙女は父・八平と母・幸の三女として生まれ、父譲りで大柄で身長約174cm、体重約112kgだったために、「坂本のお仁王様」とあだ名を付けられたと言われています。 男勝りで薙刀・剣術・弓・馬術などの武芸に優れていて、琴・三味線・舞踊の他に和歌や謡曲などの文芸にも長けているだけでなく、浄瑠璃・琵琶歌など多くの才能ある女性でしたが、料理や裁縫は苦手だったと言われています。

母親の代わり

母を亡くしてからは母親代わりとして、龍馬に学問や武術などを教え育てたと言われています。龍馬にとって姉・乙女の存在はよき理解者であり、自らも国のために力を尽くしたいと言う望みを伝え、龍馬からの返事を待っていたところ、暗殺されたと言われています。 一度は結婚し家を出ましたが、家風の違いなどにより数年後には離婚して実家に戻り、龍馬の死後に「乙女」から「独」と改名し、甥の直寛と暮らします。コレラ感染を恐れて野菜を食べなかったために、壊血病になったと言われています。

武市 瑞山(たけち ずいざん)

武市は幼名を「鹿衛」本名を「小楯(こたて)」と言い、通称の「半平太」と呼ばれることが多く、「瑞山」は号であって通称ではありません。変名もあり「柳川左門」と名乗る際には、雅号も「吹山」に変えています。 一流の剣の腕前と教養があり芸術にも優れていた武市を、皆は「武市先生」「あご先生」など語尾に「先生」と付けて呼ばれていました。しかし、龍馬だけは遠縁であり仲が良かったためか唯一互いをあだ名で、龍馬は武市の顎が反り返っていることから「あご」と呼び、武市は背中の毛があることから「あざ」と呼んでいました。

勤皇党と暗殺

桂小五郎

勤皇党の母体となった剣術道場を嘉永2年(1849年)に開き、中岡慎太郎や岡田以蔵などが門下生におり、桂小五郎・久坂玄瑞・高杉晋作など尊皇攘夷派と江戸の桃井道場で学んだ際に交流を持ちます。文久元年(1861年)には、坂本龍馬・吉村寅太郎・中村慎太郎などの同士を集めて、土佐勤皇党は結成し党首となります。結成2年後には、192名が参加するほどの組織となりました。

開国・公武合体派の吉田東洋を暗殺させた後に、吉田派の重臣を追放し、藩政の実権を握っていました。その後、京で佐幕派の暗殺に関与し、天誅と称して刺客を放っては、政敵を暗殺させていました。

忠義心のために

久坂玄瑞

文久2年(1862年)に、薩長和解調停案のため帰郷することとなった際には、久坂玄瑞は武市の身が危険だと考え長州への亡命を勧めたが、厚意に感謝しつつも君主への忠誠心により断ってしまいます。その後8月18日の政変が起き、大勢の同志とともに投獄され土佐勤皇党は壊滅することとなり、吉田東洋暗殺事件について取り調べられた際に、武市は身分の高さから他の同志とは扱いが違い拷問はされなかったが、岡田以蔵の自白によって「君主への不敬行為」という理由によって切腹が決まります。そして、誰も出来なかった「三文字の切腹」をしたことが有名となっています。

岡田以蔵

勝海舟

武市瑞山は土佐藩で、岡田以蔵に剣術を教えています。その後、武市の通った桃井道場へ入門し、勤皇党に入り部下となるなどの事から岡田以蔵が、武市をとても慕っていたことが分かります。 また、岡田以蔵は海軍塾にいた龍馬と交流があり、護衛を頼まれ暗殺から勝海舟を守ったこともありますがこの時、勝海舟は岡田以蔵に「人を殺してはいけない」と諭され、岡田は「それでは、先生の首が飛んでいた」と返し、勝海舟はそれ以上何も言えなかったと言われています。

勝海舟はその後、岡田の腕を見込んでジョン万次郎の護衛を頼み、6人の暗殺者から守っています。岡田以蔵は護衛を受けて人を守ることもありましたが、「天誅事件」として六ヶ月で9件もの暗殺を行っていました。 8月18日の政変以降、京都に潜伏していたところを土佐藩に捕えられ、拷問を受けた後に武市と同じ時期に処刑されました。


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